お味噌の歴史と動向
〜味噌の歴史と大豆のお話〜
日本人の毎日の食卓に欠かせない味噌は、蒸した大豆をつぶし、麹菌と塩、種水を混ぜて発酵させた調味料です。近年は日本食ブームの高まりもあり、海外からも注目を浴びています。
本日は味噌の起源や歴史、大豆の需要についてお伝えしていきます。
《味噌の起源》
味噌の起源ははっきりとは解明されていませんが、「中国発祥説」と「日本発祥説」があります。
[中国発祥説]
古代中国の醤(しょう/ひしお)を起源とし、遣唐使により日本に伝来したとされる説です。
「醤」は魚や肉をたたいて、麹や塩と混ぜて発酵させた調味料です。「未だ(いまだ)醤にならないもの」という意味の未醤(みしょう)から味醤、味曽、味噌に変化したとされています。
現在日本でも使われている豆板醤(トウバンジャン)や甜麺醤(テンメンジャン)にも「醤」という文字があります。アジアで使用されている調味料には「醤」を起源に広まったものが多いことがわかりますね。
[日本発祥説]
一方日本発祥説では、古代日本の「塩漬け」が起源とされています。縄文時代から弥生時代には食料を保存する方法として、塩漬けが用いられていたようです。保存方法を試行錯誤する中、大豆を煮て塩漬けにする方法が生まれ、この過程でできたのが味噌と考えられています。
《味噌の歴史》
現代ではスーパーや小売店で購入でき、なじみのある味噌。これまでにどのような歴史があったのか探っていきます。
[平安時代]
「味噌」という文字は、平安時代の文献で初めて確認されます。今のように調味料として使うのではなく、食べ物につけたりなめたりして、そのまま食べていたようです。当時は役人の給料に使われたり、贈答品にされたりと貴重な食べ物として扱われていました。
[鎌倉時代]
鎌倉時代には中国からやってきたすり鉢が使われるようになりました。粒のある味噌をすりつぶすことで用途が広がり、味噌汁として使われるようになります。食事の基本である「一汁一菜」はこの頃に確立されました。
[室町時代]
大豆の生産量が増え、農民が味噌づくりを行うようになり、一般的に広まるようになりました。
[戦国時代]
戦国時代には戦場での食料として重宝されました。貴重な栄養源として配慮され、味噌の醸造方法が発展します。武田信玄は「信州の味噌」、伊達政宗は「仙台の味噌」というように、戦国武将は味噌づくりを奨励しました。
[江戸時代]
江戸では人口が50万人に増加し、地元のみでの生産量ではまかないきれなくなりました。三河や仙台から味噌が運ばれるようになり、味噌屋は繁盛します。さまざまな味噌料理が作られるようになり、庶民の生活になじんでいきました。
[明治・大正時代]
味噌の製造が機械化され、「漉し味噌」「擂り味噌」が販売されるようになりました。
[昭和~現代]
第二次世界大戦中は、配給制度により配給制となった地域もあります。昭和30年頃までは、農家で味噌が作られていましたが、昭和40年代以降自家製味噌は減少。日本各地に味噌の製造業者があり、独自の商品開発が行われています。
《大豆の需要動向》
味噌の原料となる大豆の、日本での需要量はどの程度でしょうか。令和5年12月に農林水産省で発表したデータは、以下の通りでした。
食品用大豆は国産が23%、輸入が77%です。日本が輸入している大豆は、アメリカ産が7割程度をしめ、以下ブラジル・カナダ・中国となっています。
国産大豆はほぼ全量が豆腐、煮豆、納豆などの食品向けに使用されています。
[味噌の国産大豆使用量割合]
国産大豆が最も多く使用されているのは、煮豆です。大豆の使用量2.8万トンのうち、国産は2.0万トンで国産比率は72%です。一方味噌では、大豆の使用量15.2万トンのうち国産は1.5万トンで、国産比率は13%となっています。消費者のニーズに応えるため、国産使用量の増加が期待されています。
参考:「国産大豆の需要をめぐる動向」令和5年12月農林水産省 農産局 穀物課/農林水産省
[味噌に使用される国産大豆の品種]
そもそも大豆には種皮が黄白色~黄色の「黄大豆」、淡黄緑色~濃緑色の「青大豆」、黒豆と呼ばれる「黒大豆」などがあります。
味噌に使われるのは一般的に「黄大豆」で、生産量の多い「とよまさり」「リュウホウ」「エンレイ」の使用割合が高めです。
《人と地球の健康のために》
日本伝統の食文化の一つである味噌。原料となる大豆の多くは輸入品でまかなわれているのが実態です。輸入大豆は、原産地での保管や輸送時の腐敗を防ぐために、農薬が使用される場合もあります。
輸入時に残留農薬のチェックに合格したものだけが輸入される仕組みにはなっていますが、人と地球の健康を考えた場合、国内栽培で添加物無添加にこだわりたいものです。日本の食文化を守るためにも大切だと私たちは考えます。